防災・減災への指針 一人一話

2013年11月14日
大人から子どもへ -経験を伝える事の大切さ-
多賀城八幡小学校 教諭
遠藤 世津子さん
多賀城八幡小学校 教頭
黒沼 俊郎さん

「海の近くでない」という認識が生んだ油断

(聞き手)
大きい揺れが起こった際、津波が来ると予想出来ましたか。

(遠藤様)
津波の予想はしていましたが、これほど大きいとは思っていませんでした。私の生まれた所は気仙沼の沿岸部でしたので、実家は流されて、もうありません。
また、多賀城に赴任する前は南三陸町にいましたので、地震が起これば津波が来るという予想はしていました。
しかし、多賀城八幡小学校は海が見えない所でしたので、ここまで津波が到達するとは思いませんでした。
学校の校庭に子どもたちを避難させた時に、ちょうど保護者の方々が迎えに来られたところでした。
大津波警報が発令されて、6メートルくらいの津波が来るという情報がラジオから聞こえていましたが、私は、ここは海の近くではないので大丈夫だと思っていました。
大きな揺れから逃れることができたという安心感で校庭におりました。
その後は、迎えに来られた保護者に子ども引き渡しました。
学校は海から遠い位置にありましたが、保護者の中には、海の近くに自宅がある方もいらっしゃいました。
しかし、保護者に児童を無事に引き渡しできたという安心感でいっぱいで、津波のことは、前にも述べたように全くといっていいほど考えていなかったのです。
そのうち、仙石線の線路を越えて、コンテナや車と一緒に津波が来るのが見えたので、急いで、校庭から校舎の3階に子どもたちを上がらせました。
幸いにも、低い田んぼの方に流れて行ったので、校舎の中までは、津波が押し寄せることはありませんでした。ここまでのことを振り返っても、津波に対して認識が甘かったと思いました。
地区に防災マップというのが配られていまして、標高何メートルといった事が書いてあります。自宅に帰ってからそれをみると、市役所付近で約2.6メートル、この辺りだと海抜1~2メートルで、平らな土地が広がっているため、津波が来てもおかしくない場所ということを初めて認識しました。

(聞き手)
 発災直後の出来事で、印象に残っている事は何でしょうか。

(黒沼様)
震災時、私は、東松島市野蒜にあった宮城県松島自然の家に勤務していました。建物は倒壊しませんでしたが、施設内での停電や水道管の破裂などの混乱が起こりました。
今までにない揺れで、時間も長かったからです。
施設外観は非常に新しく見えますが、建てて40年になりますので、水道管が破裂したり、電気が消えたりした所が多くあり、その対応に追われました。
また、海辺に近い施設という事もあり、海の生き物を飼っている大きな水槽が玄関付近にあったのですが、それが大きく波打っている所を見た時に、本当に凄い揺れだと実感しました。
大津波警報が発令されていることをラジオで確認し、屋上に避難してから約1時間の間に、出来る限りのものを屋上に上げました。
その時は本当に津波が来るのかと疑問を持っていました。
  松島自然の家は、社会教育施設でしたので、テントやコンロ、一時的に食べる程度の食料を運び出しましたが、その時は、運び出すことよりも、むしろ施設の整備などに追われていました。大津波警報は出ていましたが、発令から時間が経過していたのに何の変化もありませんでした。
それに加えて、断片的な情報しかありませんでしたので、津波が来るのか半信半疑の思いでしたが、落ち着いて行動しようと思い、もう一度施設内に人がいないか確認などをしました。
その後、バリバリという音が鳴ったので、皆で、この音は何だろうと言っていたら、津波の先端の波が野蒜海岸の方から押し寄せて来ていました。
その時、施設にいたのが自分を含めて11人ほどでしたが、どのようにみんなの命を守るのか、秒単位の対応が必要でした。
大声で「助けて」と声を上げる女性たちを、どのように冷静にさせるかという事と、自分自身も冷静にならなければいけない事とで必死でした。
私は東松島市在住で、自宅が海岸沿いにありましたので、自分の家はどうなってしまうのかという事も頭をよぎり、不安に思いました。
また、津波が海岸までずっと押し寄せていたので、その近くにいる人たちが助けを求めていたら、救助出来るかどうかと考えていました。

(遠藤様)
地震の揺れが収まってから、全員で避難訓練通りに校庭の避難場所に集まりました。そして名簿を確認して、子どもたちを保護者に引き渡しました。余震が大きかった事もあり、校長先生の指示で、校舎内には一切入る事が出来ませんでした。
恐らく、校舎が倒壊するかもしれない可能性があるので、誰も中に入れたくなかったのだと思います。
そして、ジャンパーも着ずに逃げて来たので、保健室から毛布、手近な所からブルーシート、外からテントなどを出して、寒さを堪えながら外で校舎中の安全が確認されるのを待ちました。そのうちに本当に寒くなってきたので、校庭にある学童保育の「すみれ学級」という建物に、子どもたちを避難させようということになりました。
それから、近隣から避難して来た人もいらっしゃったので、すみれ学級の中に入りましょうと声を掛けているところで津波が見えたので、校舎の3階まで靴を履いたまま、みんなを上げました。

(聞き手)
学校は避難所になっているので、市民の方たちが沢山避難されてきましたか。

(遠藤様)
押し寄せて来るというほどではありませんでしたが、最終的に、一晩で300人ほどの人が集まりました。
その後は、津波で周りを囲まれてしまったので、避難して来る人はいませんでした。
避難して来た人たちは、近くの書店にいた人や、電車がストップしたために、電車から降りて逃げて来た人でした。初めは、どうしてこちらに向かって走ってくるのかなと思っていましたが、その人たちの後ろから津波が迫って来ていたのです。

ちょっとしたアイディアの効果

(聞き手)
 当時の対応で上手く行った事と、大変だった事をお聞かせください。

(黒沼様)
松島自然の家では、普段から基本的な避難訓練は行っていたので、避難場所はここで、もし津波が来たら屋上に逃げるという判断を瞬時にする事が出来ました。
やはり普段から訓練していて良かったと思います。ですが、本当に津波が来て、次のステップを考えると、もっと考えておくべき事があったと後から気付きました。
松島自然の家では、諸活動の中で「海のプログラム」というものがあります。
船に子どもたちを乗せたりする際に、ライフジャケットなどを使用しますが、オフシーズンは1階の倉庫に置いていました。
東日本大震災の1カ月ほど前に「ライフジャケットを屋上に置いておけば、何かあった時に助かるかもしれないですね」と言ったことを、震災後に思い出し、「ちょっとした思いやアイディアが実は大事なのかもしれない」と職員と話をしました。

経験を踏まえ訓練内容を改善

(聞き手)
 他にも、訓練をしていたから上手く行った事はあったのでしょうか。

(遠藤様)
保護者への引き渡し訓練を数回した後で、少し軌道に乗り始めた頃でしたから、震災時も引き渡しを的確に行う事が出来ました。
ですが、津波が来ていたので、皆さんを引き止めておくか、「津波警報が出ているので沿岸部には行かないようにしてください」と声掛けする事が必要だったと思います。
私たち職員の対応としては、その辺が不十分だったと思いました。
震災後の避難訓練は地震、津波が起こった事を想定して行っていますが、一時避難の時は校庭に向かい、津波警報が発令された時は校舎の2~3階まで上がるような訓練や、保護者への引き渡しについても、高い場所にある室内で引き渡すような訓練を行うようになりました。
もう一つは、津波が来て校舎が使用出来なかった場合、どこへ逃げれば良いかという事です。色々と検討はしていますが、今のところ仙台育英学園方面に逃げることにしています。

(聞き手)
子どもたちの安否確認をどのように行いましたか。

(遠藤様)
安否は地震発生の3日後に確認しました。
金曜日に地震が発生して、翌日、一度私たちは家に帰らせて頂きました。
家族の安否を確認してから学校へ戻り、日曜日から月曜日には全教職員で、1軒ずつ安否確認のために歩き周りました。
児童たちの無事を確認出来たのは14日の月曜日でした。
震災時、保護者へ確実に子どもたちを引き渡した事と、保護者が来ない子どもたちを一晩預かって一緒に学校に泊まった事が功を奏し、安否確認がしやすかったのではないかと思います。

子どもたちの「物の保障」と「心のケア」の問題

(聞き手)
 これからの多賀城市の復旧、復興に向けて、何か意見や要望などはございますか。

(黒沼様)
住んでいた場所が失われた子どもがいます。元の場所に住むのが難しいご家庭もあると思います。第一に家庭があって、私たち学校教育が成り立っていますので、家庭や住居の安定と地域の繋がりなどが重要ではないかと思います。そこで、子どもたちが安心して過ごしやすい環境を早く作って頂きたいです。その中で、学校と地域がそれぞれの繋がりを求めて、同じ方向で前進する事が、何より復旧・復興に結びつくのではないかと感じます。
また、どこも同じかと思いますが、物品の支援と心のケアを一緒に継続して頂きたいです。

(遠藤様)
PTAの皆さんや地域の人たちは、震災被害が大きい地区に住んでいらっしゃった方が沢山いましたが、大変多くの協力をして頂きました。
また、全国・多方面から色々な応援や支援をして頂いて、本当に勇気づけられました。
平成23年度は学校の行事を、震災前のように行う事が出来ませんでしたが、その後、少しずつ以前のように行う事が出来るようになり、保護者の方にも喜んで頂けました。
仮設トイレなどを準備して頂き、早い時期に学校を再開させられたので、学習発表会を開く事が出来ました。
また、プールにも入る事が出来ましたし、卒業式も行う事が出来ました。この2年間で、以前と変わらない事が出来るようになり、皆とても喜んでいます。

(聞き手)
震災前と比べると、繋がりが強くなりましたか。

(黒沼様)
そうですね。私の前任者の記録を見ると、全国からの支援がありましたし、PTAとの繋がりもありました。黒川郡のPTAの方々には、整地に使用する砂利や、環境整備に使用するスコップや一輪車などを、わざわざ学校に届けて頂きました。
また、東京世田谷区の合唱団に所属する方が、何かの公演の最中に、私たちの学校に津波が押し寄せて被害が大きかったという情報を知り、募金活動をしてお金を集め、それを寄付して頂きました。
その寄付金をもとに、私たちの学校では、環境整備や防災の時に使用できる昔ながらのリヤカーを買わせて頂きました。
その方たちには1度もお会いした事がなく、電話だけの繋がりでしたが、本当に涙が出てくるほど嬉しく思いました。

新しい多賀城市の防災に期待

(聞き手)
 多賀城八幡小学校のそばに、新しい避難道路ができる予定ですね。

(遠藤様)
多賀城市には、国道45号と産業道路という幹線道路が2本走っており、とても交通量が多いのですが、その道路を通して津波が広がっていったようです。また、砂押川という大きな川が流れていますが、その川が決壊した方面に多くの水が押し寄せたようです。
多賀城市では、津波から逃れるための南北方向の道路を新たに整備しているそうです。これまでになかった避難ルートですので、それが完成すれば、安心して生活ができると思います。
多賀城駅も整備されてきましたし、地域も防災対策に向けて活性化しています。全て元に戻る訳ではありませんが、少しずつ、新しい多賀城に生まれ変わっていく事を期待しています。

大人から子どもへ経験を伝える事の大切さ

(聞き手)
 今回の震災を経験して、将来に向けて伝えていきたい事はなんですか。

(黒沼様)
先ほどから申し上げている通り、ここまで大きな被害が起こるとは想定出来ませんでした。最近のニュースなどを見ると、災害というのは本当にいつ襲って来るかわかりませんし、津波だけでなく今まで経験した事のないような、瞬時に起こる気象条件も沢山あります。あまり縁がないと思っていた雷や竜巻などが、日本の中で発生する世の中なので、自分の身を守るヒントや、被害が起こる前の基本的な情報を子どもたちに教えていく事が大事だと思います。私たち大人は、その場の状況を瞬時に判断して、的確な行動と決断が出来るようになる事が大事です。
  また、普段から人とのコミュニケーションを取る事も大切です。
  震災を形として残して伝えていく事が大事だという事で、地元の多賀城高校の生徒さんたちによって、津波がここまで来ましたという津波波高表示板を電柱に貼って頂きました。このような活動を通じて震災の歴史が残るとは思いますが、時が経つと、ここまで津波が来たらどう対応するかという次の行動には結びつかなくなると思います。
例えば、防災倉庫も水没してしまう可能性があり、そこにある物は手が付けられなくなるかもしれません。ならば高い場所にも何か備蓄したらいいのでは、などの発想の転換が必要になると思います。そのような事を大人たちがしっかり考えて、子どもたちに伝えていく事が大事になってくるでしょう。そして学校の教育に、その教えを取り組んで常に考える事が出来るような子どもを育てていけたら良いと思います。

震災時は「家庭科」の勉強が活きる

(聞き手)
 学校教育と関わりのある点では、何かございますか。

(遠藤様)
色々な災害、事件事故など社会を揺るがす大きな事態が起こると、最後は「人の力」が必要なのだなと考えています。
現代はエネルギーを作り出す電気やガスや石油などに依存した生活をしていますが、そのエネルギー依存の生活が止まってしまった時にこそ、人の力と知恵が解決へと導いてくれるのではないでしょうか。
一昔前の、今より人間の力が必要とされていた生活というのを、年長者である私たちは経験しているので、なんとかやっていけると思いますが、今の子どもたちはその生活を知りません。
もしエネルギーが途絶えてしまった時、彼らは生きていけないかもししれません。
ですから、私たちが人間の力で出来る事は、こんな事があるのだと伝えていく必要があると思います。例えば、家庭科で「ご飯を炊く」という学習をします。今は、スイッチを押せばご飯ができあがりますが、一手間かけて鍋でご飯を炊いてみたり、ご飯が炊ける様子を見ることにより、色々な方法で調理ができるというノウハウが身につくと思います。やがて子どもたちも大人になり、今度は、親として、自分の子どもを守らなければならない時が来ます。その時に小学校や中学校家庭科での勉強が活きてくると思います。
それから、理科の授業では発電の勉強をしますので、人間の力でも電気を起こして灯りを点ける事が出来るということや、他のエネルギーにも変える事が出来る事など、色々なことがらの基礎を覚えておけば、どうにか生きる力に繋がるのではと考えています。そういう事を大事にしながら、学習を進めるよう心がけています。

休み時間に避難訓練を行うことの意味

(聞き手)
 避難訓練の実施状況について教えて頂けますか。

(黒沼様)
本校では、休み時間に避難訓練を行います。教室の中で担当の先生が近くにいる授業中などに災害が発生するとは限りません。
校内や校庭にいる先生や子どもたちを瞬時にまとめて避難します。
私はこの学校に来て2年目になりますが、そのような視点をもつ事も大事だなと、八幡小学校で新たに気が付きました。
安全、安心な学校をつくるために、学校の中でちょっと工夫出来る事を見つけていけば、それが防災訓練にもつながると思います。子どもたちが大人になった時に気付くヒントを残していく事が、私達の使命だと思っています。また、学校だけでなく、家庭に帰ったら児童が学んだ出来事を家庭でも確認し、皆で防災の意識を高めていけたらいいなと思います。

(遠藤様)
学校には教頭先生、校長先生、防災主任の先生がいらっしゃいます。震災以降、防災対策や避難訓練などを行って3年目ですが、より安全で的確に、そしてスムーズに行動が出来るように変わってきました。
そして、避難の動きが確立されたら、しっかりとした形で残し、伝えていくことが大切だと思います。
やがて、震災を経験していない子どもたちが入学します。職員にも同様のことが言えます。その時に、震災から学び得た防災対策を活かしていくことが、これからの子どもたちをより安全に守る事になるのだと思います。

防災教育とは、大人になった時に気づくヒントを残していくこと

(聞き手)
 他に話しておきたい内容がございましたらお願いします。

(黒沼様)
震災を経験したことで、学校での避難訓練や災害の研修などをする時に、意識を新たにして取り組んでいけると思います。この意識を大事にしていく事が、いつ起こるかわからない災害への備えになる事でしょう。
常に現状で満足せず、そこから少し別な視点を持ってほしいと思います。私も本校の校長先生に「今までは学校の中になかったけれど、こういう物が必要だよね」という事で、色々とご指導して頂きました。
また、これは教訓の1つだと思いますが、電気が落ちると停電になって校内放送が使用できません。先生方の声が子どもたちを繋ぐ言葉のリレーになると思うので、電子メガホンがあれば、近くにいる先生が瞬時に察知して的確な行動をする事が出来ます。
それから、各教室に携帯ラジオを備えました。今までは地震が起こった場合には、職員室などでテレビから情報を得て、マイクを介して伝えていました。
しかし、ラジオを常備していれば、先生方もそこから早く正確な情報を得る事が出来ます。そのような身近な事から準備して、防災に役立てるべきだと思いました。